風のローレライ


第2楽章 風の濁流

2 新たな闇


机の中には、昨日配られたプリントや教科書がぎゅうぎゅう詰め込まれていた。
プリントはくしゃくしゃになっていたから、引っ張り出して手でしわを伸ばした。
大事なのは時間割表と学校に提出する書類。
緊急連絡票や家庭調査表なんてのもある。わたしは気が重くなった。
あのバカ親がこんなの書いてくれるはずがなかったから……。

それにしても、中学では必要な物がたくさんあった。
体操服や体育館シューズ。運動靴は別に必要だったし、教科ごとにノートやマーカーも……。
あの5千円だけじゃとても足りないよ。
上履きも買わなくちゃいけないのに……。鞄なんか買えない。どうしよう。

放課後。先生が教科書を持って帰るように言ったけど、ちょっと無理。わたしはそっと机の中に戻した。その時、本の間にはさまっていた紙がパラリと落ちた。
拾ってみると、そこにはえんぴつの殴り書きで、
  死ね!
って書いてあった。わたしは思わずクラスの人達を見回した。
この中の誰かが書いたんだ。でも、いったい誰が……?

同じ小学校から来たのは4人。でも、男の子二人とはほとんど話したことなんかない。
女の子達の顔は知っているけど、特別仲良しではなかった。
一人の子はいつも本を読んでいるような子だったし、もう一人はバレエを習っていて、授業が終わるとすぐに帰ってしまうようなタイプ。どっちにしてもわざわざこんな意地悪をするような子達じゃない。
それじゃあ、誰?
光の中で淡い闇がレースのように模様を作る。

教室の中に闇がある。
闇の風が動いてる。
でも、その風の流れを、行く先を確かめることはできなかった。
わたしは、その紙をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
先生に言おうとは思わなかった。
そんなことをすれば余計にいやがらせがひどくなることを知っていたから……。
「桑原さん」
ふいに誰かがわたしの名前を呼んだ。振り向くと、ウェーブの掛かった長い髪の女の子が立っていた。
「ごめんなさい。驚かせちゃって……。わたしは、西崎 忍(にしざき しのぶ)」
「西崎さん……?」
わたしは首を傾げた。
「わからなくても当然よ。あなたの席とはだいぶ離れているんですもの」
彼女は鼻にかかった甘ったるい声で言った。
「わたしね、あなたにこの鞄を差し上げようと思うのよ」
真新しい通学鞄を差し出して、その子は言った。
「だって、それってあなたの鞄じゃないの?」
意味がわからずに、わたしは彼女と鞄とを見つめた。
「ええ。でも、いいのよ。わたしはいくらでも別の鞄を買ってもらえるんですもの」
何だかいやな感じ。

「いくらでも? それってどういう意味よ!」
わたしは少しムッとして言った。
「わたし、小さい頃から、困っている人には恵みを与えなさいと言われて育ったの。あなた、鞄も上履きも持っていなそうだから……」
「今日はたまたま忘れただけだよ!」
そう言い返すと、そいつは蔑むような目でわたしを見た。
「かわいそう……」
「何がよ!」
「だって、そうでしょう? お金がないって惨めだわ。性格までこんな風にねじ曲がってしまうんですもの」
そう言うと西崎は高飛車に笑った。見れば、クラスの女子のほとんどが、そいつの取り巻きになっている。
  こいつだ!
こいつがこのクラスの闇の風を撒き散らしているんだ。

風は飢えていた。
わたしは、その闇を使って、こいつの鼻をへし折ってやりたかった。でも、できなかった。
その時、教室のうしろのドアからリッキーが顔を出して言ったのだ。
「なんだ、アキラも同じクラスだったのか。へえ、その制服、よく似合ってるじゃん。さっすがマー坊のばあちゃん、腕がいいぜ」
「あ、これ、ありがとう」
わたしはそう言ったけど、リッキーの視線の先が気になった。同じクラスってまさか……?

「忍、仲良くしてやれよ。何っつったってこいつは『プリドラ』のボーカル候補なんだからな」
「わかってるわよ。だから今も、お友達になりましょうってお誘いしていたの。ねえ、桑原さん」
西崎が皮肉の笑みを浮かべる。
「二人はどういう関係なの?」
わたしはストレートに訊いた。
「あら、嫉妬しちゃった? ちがうわよ。わたし達はただの幼馴染なの」
そう言って、彼女はリッキーの腕に絡みついた。いやな女だ。
「ああ。家が隣ってだけだよ」
リッキーは、その手を軽く払って言った。
「わたしのお目当てはあくまでも裕也なんだから……。ねえ、放課後、彼のお見舞いに行くでしょう?」
西崎がすり寄るように言う。

「裕也も災難よね。不良に絡まれるなんて……。わたし、豪華な花束を持って行ってあげる。それに裕也が好きなお菓子と本をたくさん」
「えっ? でも、花はまずいんじゃねえのか? 最近はどこの病院でもうるさくなってるし……」
「あら、平気よ。叔父様が理事長をしている病院ですもの。忍の言うことなら何でも聞いてくれますのよ」
そう言うと笑いながら二人は廊下に出て行った。
「何よ!」
ムカつく女!
豪華な花束ですって?
わたしだって花くらい持って行けるもん!
お見舞いに行くなら、それくらいしなきゃ……。だって、裕也がケガをしたのは、わたしのせいなんだもの。
それにしても、あの女が裕也達の知り合いだったなんて……。わたしはショックだった。

「リッキーもリッキーだよ。あんな女におべっかつかっちゃってさ」
わたしはおもしろくなかった。それから、わたしは自分が着ている制服を見た。リッキーのお姉さんが着ていた制服を……。
その時、西崎が戻って来て、わたしの前に鞄を放り投げた。
「そうそう。鞄あげるの忘れるとこだったわ。それがないと明日から困るでしょ? 恵んでやるわよ!」
彼女はじっとわたしを見て言った。
「拾いなさいよ。遠慮しなくてもいいのよ。あなた、貧困なんだから……」
彼女の背後には闇の風が渦巻いていた。でも、わたしはそれを払おうとはしなかった。
「いらない!」
わたしはそいつを睨みつけて言った。
明るかった教室が闇に呑まれ、暗室の中で釣り上がった目がたくさん浮かんでいる。
ここはもう学校なんかじゃない。
「さあ、どうしたの? 這いつくばって拾いなさいよ。そして、わたしにありがとうと言うのよ」
わたしはその鞄を踏みつけた。

「なんてことするの! この野蛮人!」
「そうよそうよ!」
「せっかく忍様がお恵みくださった物を……」
周りの女子達が口々にわたしを責める。
「どういうつもりなのかしら? 忍様に逆らうなんて……」
こいつらみんな、おかしいんだ。
わたしは床の鞄を思い切り蹴り飛ばして叫んだ。
「おまえら、みんなバカだ!」
わたしは走って教室を出た。

それから、急いで昇降口に向かった。あいつらより先に南野病院に行かなきゃ……。
だけど、靴がない!
何度も見回したけど、わたしが置いたところも、その近くにも、どこにも……。
「そんな……」
わたしは焦った。あれにはお金が入ってるのに……。わたしの唯一の5千円。あれがなかったら、何も買えない。体操服も、上履きも、それに食べ物だって……。
関係のない上級生の棚もぜんぶ見た。でも、やっぱりどこにもなかった。どうしよう。泣きたくなった。だけど……。
西崎がこっちへ来るのが見えたから、わたしは急いで反対側の廊下を走って事務室の前のトイレに隠れた。
「何をしてるの? ここは職員専用よ」
あとから入って来た事務員さんが言った。

「あ、すみません」
わたしはそう言って出ようとした。けど、思い切ってその人に訊いてみた。
「あの、実は番号のない下駄箱に入れてあったわたしの靴がなくなってしまって……」
「番号のない棚? ああ、そういえばさっき、用務員さんが放置されていた靴とかを片付けていたけど……」
「それ、どこに持って行ったんですか?」
「たぶん、裏庭の焼却炉跡だと思うんだけど……」
「ありがとうございます」
わたしは大急ぎで校舎を突っ切ると裏庭に出た。スリッパを借りて来ちゃったけど仕方ないよね。あとで洗って返せばいいや。
そこには袋に入ったいろんなゴミが積まれていた。その中に、わたしの靴もあった。
「ゴミと間違えられるなんてひどい」
悔しかったけど、仕方がない。ちゃんと見つかったし、お金もあったんだから……。
これで上履きと体操服を買おう。

指定のお店は20分くらい歩いたところにあった。
お店の人は親切だったけど、やっぱりお金が足りなかった。夏の体操服の上下と上履きを買ったら4860円もした。残りは140円……。
これじゃ、裕也に持って行くお見舞いの花だって買えない。それに、できれば平河にだって花くらい持って行ってやりたかったのに……。

わたしは、花屋の前を通り過ぎた。一番安い花束だって380円もする。とても無理だ。こんなことなら、体操服なんて買わなきゃよかった。
だけど、他にだって、必要な物はいっぱいある。それらをどうやって手に入れよう。
そうだ。上履きと体操服を学校に置いて来よう。バカ親に見つかるとやっかいだし……。
わたしはもう一度、学校まで戻ると1209番の下駄箱にそれらを入れた。それから、急いで病院に向かう。

途中、やっぱり気になって花屋さんをのぞいた。
1番安いのは……。カスミソウか。白くて小さい花がたくさん付いていたけど、少し散り掛けている。
セールで1本120円って書いてあった。
わたしはそれを1本買って包んでもらった。それで、お金はもう11円しかない。
これじゃ、何も買えないね。

それから、わたしは病院に行くと裕也が入院している病室に向かった。
402号室。そこが彼の部屋だった。ドアが開いていて、中が見えた。
そこには先客がいて、裕也はうれしそうに話していた。
「忍、また、こんなにいろいろ持って来たのか? 困るよ。お菓子だって食べ切れないし、病室が花だらけになっちゃうだろ?」
「いいのよ。裕也のためなんですもの。『プリドラ』親衛隊としては、これくらいしたってまだ足りないくらいよ」
「それにしたって、他の患者さん達の手前もあるし……」
「大丈夫よ。ここは個室なんですもの。叔父様に頼んで特別に取りはからってもらったんですもの」
それを聞いたリッキーが笑いながらからかう。
「じゃあ、おれが入院した時も特別扱いで頼むよ」
「あら、ごめんなさい。これは裕也だけの特権なの」
「ひでえなあ」
そう言いながらも、病室は明るい笑いに包まれていた。

「あなた、うちの裕也にご用?」
ふいにうしろから声を掛けられて振り向くと、大きなバラの花がたくさんささった花瓶を持った女の人が立っていた。
「あ、いえ。ちがいます」
わたしは急いでそこから離れた。
あれはたぶん、裕也のお母さん……。目と口元がよく似てたもの。でも、わたしは言えなかった。裕也のお見舞いに来たってことは……。
抱えていた緑の葉がカサカサと鳴った。こんなの持って来たわたしがバカだったんだ。かわいい花だと思ったカスミソウが今は惨めに思えて憎らしかった。
「キラちゃん」
ふわふわと広がった葉を見つめていたから気がつかなかったけど、そこには、いつの間にか平河がいた。

「へえ。カスミソウか。もしかして、おれのお見舞いに来てくれたの?」
「う、うん。ひどいケガしてたし、どうしたかなと思って……」
「ありがとう。うれしいよ。それにしてもよくわかったね。おれの好きな花がカスミソウだって……」
「そ、そうなんだ」
平河は本当にうれしそうだった。
「中学の制服、似合ってるね」
彼の言葉が陽射しの中で反射して聞こえた。
「おれの部屋そこだから……」
先に立って歩く彼の背中にはもう、「FINAL GOD」の文字はなかった。他の人と同じ病院のパジャマを着ている。
「あ、平河君、病室に植物を持ち込まないでね」
看護師が注意する。何よ。あっちの部屋では許可してるくせに……。
「すみません。でも、あと一日だけですから……お願いします。せっかく持って来てくれた物を持って帰らせるなんてかわいそうだし……。ビニールで覆っておきますから……」
「そう。仕方がないわね。それじゃ今回だけよ」
そう言うと、その看護師は忙しそうに行ってしまった。

彼の部屋は408号室。6人部屋の窓際だった。
「平河、明日、退院するの?」
「ああ。もう動けるからね。裕也はまだ掛かりそうだけど……。あいつのとこにも行ったのか?」
「ううん。行かない。あっちにはいっぱい人がいたし……」
「そうか」
平河は台の上にカスミソウを置くと、戸棚からお菓子とジュースを出して、わたしにくれた。
「荷物減らしたいんだ。悪いけど、食べてってくれないか?」
「そうしないと困るの?」
「ああ。お袋がいろいろ持って来ちゃってさ。心配性なんだよな。すぐ退院するってのに……」
そう言って、平河がジュースを開けて口を付けたので、わたしもそうした。おまんじゅうとクッキーも食べた。

「ねえ、退院したら、またバイクに乗せてくれる?」
風を切って走るあの感覚が懐かしい。そうしたらもう、誰もわたしを追って来ない。誰も追いつけないくらい速く……。今のこの瞬間が闇の風に喰われてしまう前に……。
「いいよ。少し先になるかもしれないけどな」
平河が笑う。少しだけ白い歯がのぞき、体からは湿布のにおいがした。でも、明るいところで見る彼の顔は、どことなく大人っぽく見えた。

夜にはまた、マー坊の家に行った。
おばあさんが、わたしの服を洗濯しておいてくれると言ってくれたので、取りに行ったのだ。マー坊はまだ帰っていなかったけど、おばあさんが何度も上がって行けと言うので、わたしはそうした。
それから、夕飯もごちそうになった。

「ねえ、アキラちゃん、こんなことを訊いたら悪いと思うけど、もしかしたら、おうちで辛いことがあるんじゃないの?」
おばあさんが訊いた。
「別に……」
わたしは黙って湯飲み茶碗を両手で持って一口飲んだ。そのお茶は少しだけ苦かった。
「言いたくないならいいのよ。でも、気になってね。体にいくつも痣があったでしょう?」
「転んだ時できた」
本当のことなんて言えなかった。言えば、おばあさんにも迷惑がかかる。あいつらはそういう人間だって知ってるから……。
「そう……」
おばあさんはそう言うと、しばらくの間何も言わなかった。わたしはその間、ちびちびとお茶を飲んだ。

「そうだ。これも余計なことかもしれないんだけど……」
おばあさんは奥の部屋から鞄と革靴を持って来て、わたしの前に置いた。
「これは……?」
「お古で悪いんだけど、鞄はご近所で、卒業した子のをいただいたのよ。靴は私からのプレゼント」
「えっ?」
すごくうれしかった。でも、いいのかな? そんなにしてもらっちゃって……。
「サイズはこれでいいと思うんだけど……。ちょっとはいてみてちょうだい」
差し出された靴に足を入れる。
「うん。ぴったり」
わたしは、うれしくて部屋の中を行ったり来たりした。新品じゃないといっても、鞄もきれいだ。きっと大事に使っていたんだと思う。これで、わたしも立派な中学生になった気分になれた。うれしい。世の中もまだ捨てたもんじゃないね。

その日も、おばあさんはわたしに泊って行きなさいと言ってくれた。マー坊は9時過ぎに帰って来た。わたしがいることに驚いたみたいだけど、特に何も言わずに食事して、さっさと自分の部屋に行ってしまった。
おばあさんに聞いたんだけど、マー坊のお父さんは今、神戸に単身赴任してるんだって……。
「本当だったら、あの子も父親の方へ行くべきなんだけど、私はどうもこの家から離れたくなくてね。それで、正敏がいっしょにいるって残ってるんだよ。ばあちゃん一人じゃ心配だからって……」
確かにマー坊はやさしいもんね。わたしなんかにも手を差し伸べてくれて……。

でも、夜、その正敏がおばあさんに言ってることを聞いてしまった。
――どうすんだよ、あの子。このまま家に置くつもりなのか?
――だってね、あの子は虐待されてるんだよ。黙って帰す訳に行かないだろう?
――だからってさ。おれの立場も考えてよ。そりゃ、あいつを連れて来たのはおれだけど、いっしょに住まわせるなんて思わなかったし……。そんなことがバレたら、学校の連中に何言われるかわからないんだ。

わかったよ。あんたには迷惑かけないよ。もう十分、親切にしてもらったし、これ以上は……。わたしは聞こえないふりをして、布団を頭からかぶった。